美紗緒とミサ


 少女は闇の中でたった一人立ちつくしていた。
 何も見えない。網膜にはりつくような闇が辺りを覆っていた。
 ここはどこ?
 少女の心は恐怖に飲み込まれていく。
 何も見えない。しかし、体は風を感じた。緑の匂いを感じた。足元には丈の低い草むらとなっていると 目には見えないが感じた。
“なぜあたしはここにいるの”
 その問いに答える者は誰もいない。
“砂沙美ちゃん助けて!”
 少女は親友の名を呼んだ。いつも自分を助け、励ましてくれる友だちの名を。
 しかし、その親友も来はしない。
 一条の光すら差さない真の闇。なにもかもを飲み込んでしまう闇。
 闇と相対し少女は必死でそれから逃げようとした。
 少女は走る。どこへ行けば安心できるのかすら分からなかったが、力の限り走る。
 息が切れる。胸が苦しい。もう走れない。
 少女の心に絶望が走る。
“ダメ!ここで立ち止まったらダメ!”
 自分を叱咤する。足がふらついてくる。心臓は破裂しそうに苦しい。
 ついに膝をついて両手で自分の体を支えることになる。
 荒い呼吸音と跳ね馬のように暴れ回る動悸の音が耳に付いた。
 両手に感じる草を力任せに引きちぎった。
 どんなものかも全く分からない下草はあっさりとバラバラになり、風に乗ってどこかへ飛んでいった。
“どうしたらいいの”
 胸中で何度も繰り返してきた自問に答えることが出来ない。
“もう走れない”
 足が言うことを聞いてくれない、無理しすぎたからであろう。立とうとしても 膝が笑ってしまい一歩も歩ける状態ではない。
 もうイヤだ―――ママ、パパ、トリさん、砂沙美ちゃん、誰か、助けて!
 心が絶叫した。
 誰でもいいから助けて。
 微かでいいから光が欲しい。
 あたしを照らし出してくれる光が。
 しかし、何も変わらずにブラックコーヒーの闇と、 轟々という耳障りな音を立てて走り抜けていく風しか存在しなかった。
 誰も・・・・・・誰もあたしを救ってくれる人はいない・・・・・・。
 恐怖感はいつの間にか無くなっていた。
 その代わりに絶望がやってきた。
“あたしはなぜ生きてるの。なんのために?”
 喪失。胸の中にぽっかりと空いた大きな空洞。それはどんな時も埋められることはなかった。
 砂沙美ちゃん。
 水色の髪の少女の笑顔が闇に浮かび上がった。
 あなたとならあたしの空洞を埋められるのかも知れない・・・・・・。
 でも、出来ないかも知れない・・・・・・。
 怖い。誰からも必要とされずにこのまま大人になっていく。
 考えるだけで身の毛がよだつ思いがした。
 少女の笑顔は闇に溶けこんでいった。
 するとまた闇の中に何かが浮かび上がった。
 あなたは誰?
 長い黒髪の大人の女性。
 それはあたしだ。
 大人のあたし。
 今と変わらずいつもおどおどして他人に振り回され、自分のことを何一つ表現できない。 いじめられて一人で泣いているあたし。
“イヤ!そんなの見たくない!”
 あたしは眼を閉じた。けれどもそれはまぶたの裏に張り付いたように消えてくれない。
 止めて、イヤ、消えてぇ!
 するとそれはだんだんと遠ざかっていった。
 あたしは少し安心した。
 だけど、また何か浮かび上がってきた。
 それは誰だろうか、知らない女の子。
 金色の髪の毛に羽根飾りをさして、派手な黒い皮の服を着ている女の子だ。
「グーーーッド、モーーーニング、みーさおちゅわーん!」
 その女の子はやたらと甲高い声であたしに話しかけてきた。
「あなたは誰?なぜあたしを知ってるの?」
 その問いに、
「あたーしの名前はピクシィィィィミサァァァァ。混沌というカオスが最もよく似合う悪の魔法少女! プリティーサミーの永遠のライバルよ!アイ アム グレイト マジカル ガアール!! ゆえあってあなたのことは良く知ってるわん」
 じゃあこの人が砂沙美ちゃんの言っていたピクシィミサ!?
「な、なんのご用ですか?」
 あたしは出来ることなら関わりたくなかったが、何も言わないわけにも行かなかったので 勇気を振り絞ってミサに話しかけた。
「んー、それはグッドクエスチョンよ。そんなに理由を知りたいの?」
「はい」
 あたしは素直に答えた。もちろん理由が知りたいからではないけど。
「素直でよろしい。それじゃあ、教えて上げましょう」
 と言うと、ミサは扇形の物をあたしにつきつけた。
「美紗緒ちゅわーん、あなたは悩んでいるわね。はっきり言うと、パパやママが構ってくれないのがさみしいんでしょう」
「そ、そんなこと・・・・・・」
「隠しても無駄ぁ、ミサには分かっちゃうんだもの」
 ミサという魔法少女は勝ち誇ったように笑っている。
「あなたの心の隙間をお埋めいたしましょう、なんちゃって思うんだけど試してみる?」
 あたしはミサの言うことなど信じてはいなかった、けれども、
「オッケー、オッケー、じゃあ始めるわねぇー」
 あたしは無意識のうち―――いや、あたしの意思だったのかも知れないけど――― こくりと頷いていた。
 ミサは扇形のバトンを掲げると何か魔法を唱えたみたいだった。
 バトンからまばゆい光が発せられてあたしを照らすと、胸が猛烈に苦しくなった。
「く、苦しい」
 あたしは呻いた。
「すぐに終わるから、ちょーっと我慢しててねー」
 ミサは笑顔でこちらを見ているだけで手を差し伸べようともしてくれない。
 あたしはさっきからにやにやと笑っているこの少女に初めて激しい憎悪を感じた。
「苦しい、や、やめて!」
「もうちょっとだから辛抱しなかったらダメでやんすよ」
 ふざけた(としかあたしには思えなかった)口調であたしに言う。
 刹那、あたしの中で何かが起こった。



 あたしは
 あたしは・・・・・・美紗緒・・・・・・天野美紗緒
 小学4年生・・・・・・10歳
 あたしの好きなものは・・・・・・ママ、パパ・・・・・・砂沙美ちゃん・・・・・・トリさん ・・・・・・パパと写っている写真・・・・・・ピアノ・・・・・・お気に入りのワンピース・・・・・・
 砂沙美ちゃん、ささみちゃん、ササミチャン
“ミサオチャンハササミノオトモダチダヨ”
 何だろうこのノイズみたいな声?
“ササミハミサオチャンガダイスキダヨ”
 まただ。
 頭の中がぼんやりしてよく分からない。
 でもなんだか大切なことを忘れてしまったような気がする。
「みいーさおうちゅわーん!」
 ミサの声がした。
「これであなたは全てイヤなことから解放されたーってわけぇ 。あなたにはきっとバラ色の人生が待ってるわぁん」
 そんなことを言っていた。
 しかし、あたしはほとんど聞いていなかった。
 ぼんやりとした頭でとぼとぼと歩くといつの間にか闇は消えて、大きなお花畑にやってきていた。
 ミサという女もいない。
 あたしはいつの間にかお気に入りだったワンピースを着ているのに気が付いた。
 だがあたしはあまり深く考えずにお花畑へと寝転がった。
 空には黄色い太陽がまぶしく輝いている。
 辺りを少し見るだけで色とりどりの蝶々やミツバチが飛んでいるのが目に入った。
 レンゲやタンポポの匂いが強く薫ってきた。
 それにしばしうっとりとしていたあたしだった。
“あたしは何故こんな所にいるのだろう?”
 そんな疑問も時折浮かんできたが、気にしないように心がけた。
 しばらくして立ち上がるとあたしはまたとぼとぼと歩き始めた。
“きれい”
 あたしは辺り一面、地平線にまで広がる花畑を見てそう呟いた。
 花の薫り、それはともするとむせそうなくらい強くなっている。
 あたしはとにかく歩いた。道があるわけではないので適当に花を踏み潰しつつ歩く。
 あたしは足の裏で潰されていく草花を感じつつ、行くあてのないままに進んだ。

   1時間も歩いたのだろうか、だんだんと足がしんどくなってきていた。
 辺りを見回しても誰一人としていない。
 疑問に感じてはいるんだけど、それが不安へとは結びつかない。
 気持ちのいいお花畑、それは確かに素晴らしいと思う。
 けど、何かおかしい。何かどこかがおかしい。
 見えている世界、これは現実なのだろうか?
 あたしは足元に生えていたタンポポをひきちぎった。
 触れる、ちゃんとした感触がある、匂いもある。
 けれども、何かまやかしの匂いもする。
 だけど、あたしは何か分からないので気にしないことに決めた。
 そんなこと気にしても性がない。
 あたしはお花畑を見ると、
 “そう言えば、先週もお花畑に行ったっけ”
 あたしは先週の日曜のことを思い出した。
 二人でお花畑に行って、とても楽しかった―――
“二人!”
 二人って誰だ!?
 一人はあたし、じゃあもう一人は?
 あたしは必死で思い出そうとした。何故かそうしなければならないという、強迫観念めいた感情が沸き上がった。
 誰だったのか?
 あたしは記憶を掘り起こして、思いだそうとした。
 だけどその努力も虚しく、一向に思い出すことは出来ない。
 諦めようとしたとき―――あたしは自分がワンピース姿だということを思い出した。
“確かその子はあたしのとよく似たワンピースを着ていた!”
 確か水色の髪の毛でいつも活発で、小さなペットを連れている女の子!
 あたしが落ち込んだら励ましてくれて、あたしが泣いているときにはいつも側にいてくれた。
 あたしはハッキリと思いだした。
“砂沙美ちゃん!”
 あたしは胸の中で唯一無二の親友の名を呼んだ。
 そうすると顔は見えないけど、砂沙美ちゃんが微笑んでくれた。
 証拠はないけどあたしはそう感じた。
「こんなのは全てまやかし!!」
 あたしは出せる限りの大声で叫んだ。
 それはあのミサという魔法少女へと向けた叫び。
 すると途端に辺り一面の花畑は消失した。
 また暗闇の世界が戻ってくる。
「あーら、美紗緒ちゃんはあたーしが作った世界がお気に召さなかったようでーすね」
 あいも変わらず、異様に甲高い声を発しながらミサは現れた。
「美紗緒ちゅわーん。良かったらもう一度記憶を消しましょうか。今度は完全完璧にしてあげましょう」
「イヤ!絶対にイヤ!」
「ホワーイ?なぜですかぁ?あたしの魔法にかかれば悩み無くして暮らせるのよぅ」
 あたしは少しだけそれに魅力を感じたけど、
「イヤ!砂沙美ちゃんの顔が見れなくなるのは絶対にイヤ!砂沙美ちゃんの笑顔が見れるなら どんなに辛くても本当の世界で暮らすの!」
「いいの、本当にそれで?」
 うってかわってミサは冷たくそう言い放った。
「あなたが砂沙美ちゃんと一緒にいても、美紗緒は劣等感を感じるだけで何も変わらない。 あなたは砂沙美のようにはなれない。それとも砂沙美ちゃんの近くで一生自分の惨めさを甘受するつもり?」
「そんな・・・・・・」
「美紗緒が砂沙美に劣等感を感じていないなんて言わせないわよ。それは美紗緒もわかっているでしょ?」
 何も言えなかった。
 ミサの言っていることが間違っていないと分かっているせいだ。
「あたしは美紗緒に楽をして欲しいのよ。他には何もないわ。ただそれだけ」
 あたしは・・・・・・
「どうやら美紗緒はもう一度さっきのお花畑に戻りたいようねえ。オッケー、任せなさい」
 ミサはバトンを構えてあたしへと向けた。
 あたしはそれを見ていることしかできなかった。
「じゃあねぇ、永遠に楽しんでらっしゃーい」
 ミサの魔法があたしに向けてうちだされようとしていた。
(美紗緒ちゃん!)
 なに?
(美紗緒ちゃん!!)
 忘れることなど絶対に出来ないこの声。
「砂沙美ちゃん!?」
「美紗緒?」
 ミサは驚いた顔をして、バトンを下ろしていた。
「ミサちゃん、ごめんなさい。あなたの気持ちは嬉しいけど、あたしはやっぱり砂沙美ちゃんと一緒にいたい」
「・・・・・・」
「砂沙美ちゃんはあたしのかけがえのないお友達。あたしよりも全ては上かも知れないけど、 あたしは出来るだけ頑張って砂沙美ちゃんのお荷物にならないようになる。 それぐらいならあたしだって出来るよ。ううん、そう信じてるんだよ。 だからあたしが住む世界は夢の中じゃない、砂沙美ちゃん、ママ、パパ、トリさん、みんながいる世界なの」
 ミサは真剣な顔で―――それから笑顔になり、
「美紗緒がそう言うなら、もう止めはしないわ。さあ、みんなの元に帰りなさい」
「ありがとミサちゃん、いいえもう一人のあたし」
「・・・・・・やっぱり気付いていたの?」
「ついさっきだけどね、何となくそんな気がしたの。 あなたはあたしの闇。でもミサちゃんもれっきとしたあたし。砂沙美ちゃんに対するあたしの暗い感情を具現した人。 あたしがあたしを保つための分身。ほんとは認めたくはなかったけどね。」
 ふぅ、とミサは軽くため息をつき、
「元の世界に戻ったらきっとまた辛い思いをするわよ」
「うん、でも何とかなるよ」
 あたしは微笑んで言った。
「じゃあね、グッバイ美紗緒」
「さよならミサちゃん」
 二人のあたしは固く握手を交わすと、そこであたしの意識がとぎれた。



 目が覚めると見慣れた天井が目に入った。
 そしてすぐ側に砂沙美ちゃんがいることに気付いた。
「砂沙美ちゃん・・・・・・」
 呼びかけると砂沙美ちゃんは驚きの表情であたしを見た。
「美紗緒ちゃん、目が覚めたの!」
「どうしたの砂沙美ちゃん?」
 あたしは心配になって訊いた。
「美紗緒ちゃんは家に帰る途中で倒れたんだよ!」
 そういえばそんな記憶が微かながらある。
 そうだったの。
「美紗緒ちゃんすごくうなされてたんだよ!」
「ごめん、心配かけちゃったね」
「ううん、美紗緒ちゃんが元気になってくれればそれだけでいいよ」
 いつものように砂沙美ちゃんはあたしに優しい。
 ふと気になったことを訊いてみた。
「ねぇ、砂沙美ちゃん。うなされていたときにあたしの名前を呼んでくれた?」
「―――うん、美紗緒ちゃんすごく苦しそうだったから。何度も呼びかけたよ―――それがどうかしたの?」
 あたしは首を振って
「夢の中でなんだか砂沙美ちゃんの声が聞こえた気がしたの」
「そう、で、美紗緒ちゃんはどんな夢を見てたの?」
「それが、全然覚えてないの。すごく怖い夢だったような気もするし、そうでなかったかも知れない」
「ふうん、夢なんてそんなものだよ」
 あたしは砂沙美ちゃんの言葉に頷いた。
「砂沙美ちゃん、あたし達はかけがえのないおともだちだよね」
 何故いきなりそんな質問をしたのかは自分でも分からなかったけど、どうしても訊きたくて仕方がなかった。
「何言ってるの、そんなのは当たり前。美紗緒ちゃんは砂沙美の大切なおともだち。 砂沙美はね美紗緒ちゃんが大好きだよ」
 ありがとう砂沙美ちゃん。
 あたしの両の眼から涙がこぼれた。
 それはあたしが砂沙美ちゃんに出会うまで知らなかった『嬉し涙』だった。


―――(終わり)―――


 

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